blog index

久賀島ブログ!

久賀島は、長崎県五島列島にある馬蹄形の美しい島です。 やぶ椿が島中に繁茂し、季節になると凛とした美しい花を咲かせ 島中を赤く彩ります。 一夜にして沈んだといわれる高麗島伝説や鬼伝説など、 伝説・伝承 の多い島でもあります。
久賀島は、長崎県五島列島にある馬蹄形の美しい島です。人口約600人の小さな島ですが、 現在ボランティア活動が盛んで、 島作りのために島民が頑張っています。

↓公式ホームページはこちら
>>久賀島<<
久賀島風土記(6) - 田ノ浦編
平成26年1月11日(土)


 久賀島の玄関口である田ノ浦町。司馬遼太郎の小説「空海の風景」には、西暦804年、空海が乗った遣唐使船が田ノ浦を出港したと書かれています。田ノ浦で水と食料を積み、船体の修理をしつつ風を待ったと。現在でも天然の良港ですが、昔はもっと奥まで湾が広がり、大きな帆船が入って来ていたと聞きました。

[写真:田ノ浦湾 山口先生写す]
田ノ浦湾 山口先生写す

 平安後期に比定される木造仏、14世紀後半頃に関西で制作された五輪塔、明応6(1497)年と刻まれている木造仏など、数多くの遺物が残されている田ノ浦。これらは「海上で活動していた有力な勢力が田ノ浦や、その周辺にいたことを示している」と、長崎歴史資料館の大石一久先生は言います。

 その昔、田ノ浦はキビナ漁が盛んな地区でした。元々は刺網でしたが、明治39年に地曳網が始まり、刺網は廃業へと追い込まれていったと伝わります。有力者が組織した甲組と乙組で漁は行われ、田ノ浦の人達はキビナの加工を請け負っていました。煮干しに加工したキビナは、菰で作った俵に詰めていましたが、内海岩美さんは「中国へ送る」と聞いていたそうです。蕨町では、干しアワビを中国へ送っていたと聞きました。

 最初、地曳網の「かぐらさん」は陸に作っていました。そのために豊漁の時に網を引き寄せると、キビナが死んでしまい捨ててしまうことも。そこで、昭和30年〜40年頃に田ノ浦湾の一番奥の海の中に新しい「かぐらさん」を作り、引き寄せた網が海中にあるように工夫しました。それからは豊漁の時でも、キビナは生きたまま獲ることができるようつなりました。最初は、茹でたキビナを金網ですくい棚に広げて干していましたが、型崩れがしていました。その後、四角い木枠に金網を張りキビナを載せ、四角い窯で茹でることで型崩れは無くなりました。その頃になると、中国へ送らなくなっていました。今では、キビナ漁自体が無くなっています。

 現在は荒れ野となっていますが、田ノ浦にも田圃があり稲作も盛んでした。山の上まで段々畑もありましたが、今では山に戻ってしまい、当時を偲ぶことができるのは石垣の跡だけとなっています。

[写真:供養どん]
供養どん 供養どん

 2月9日に、「供養どん」と呼ばれる行事があります。亡霊が出て困るので、それを鎮めるために始まった行事です。9日の早朝、町内会長が「米・塩・魚・お神酒」を町内の七か所に供えて回ります。それが終わると、田ノ浦の入口にある供養塔の前で禅海寺のご住職に経をあげていただき、地域の皆さんは大きな数珠を繰りながら念仏を唱えます。昔は百万遍と言って、ご高齢の男性たちが各家を回っていましたが、今では供養塔の前で唱えるだけになりました。友引の日のお葬式は忌み嫌われますが、田ノ浦では、この供養塔を祀ることで友引の日でもお葬式をしていいと言われています。

[写真:石灰を焼いた窯]
石灰を焼いた窯

 明神社へ行く途中に、レンガ造りの変わった建物があります。昭和30年代に、田ノ浦で「カセ」と呼ばれているサンゴを焼いて、石灰を作っていた窯の跡です。海に潜ってサンゴにワイヤーをかけ、舟に取り付けたウインチで巻き上げ、数日間乾燥させて焼きました。農業用のほかに漆喰にも使っていたようです。しかし、石灰作りは長くは続きませんでした。今でも、当時引き揚げたサンゴが海岸に残きれています。当時は小店も3軒ほどあり、現在のひっそりとした田ノ浦からは思いもよらないほど賑やかで、進取の気質に富んだ地域でした。

[写真:カセ(サンゴ)]
カセ(サンゴ)

[写真:松井画伯展覧会・開会式]
松井画伯展覧会・開会式

 フランス・コルシカ島を本拠地としている松井守男画伯は、田ノ浦にもアトリエを構えています。フランス本国でレジオン・ドヌール勲章を受章し、フランスの代表画家であり、また展覧会には中日フランス大使が必す列席するほどの画伯が、なぜ久賀島にアトリエを構えたのか。松井画伯は、高見大司教から久賀島の牢屋の窄のことを聞き久賀島を訪れました。そこで目にしたのが、ヨーロッパの濃いプルーの海とは違う、グリーンが混じった海でした。山の緑が映えた海の色に感動し、久賀島にアトリエをと決めたそうです。松井画伯は、折に触れ久賀島の美しさを伝えています。

[写真:椿まつり]
椿まつり

 田ノ浦港の近くの「椿の里」。平成7年に設立したボランティアグループ「久賀島やぶつばき会」の活動拠点です。亀河原海岸清掃や椿林の整備、今年からは里山保全の活動も始めました。毎年「久賀島椿まつり」を開催。田ノ浦の方々をはじめ、島の皆さんのご協力で、今年は2月22日、23日に開催します。人口減や高齢化にも挫けず、まだまだ続けていきます。

[写真:椿まつり]
椿まつり
| hisakajima | 久賀島について | 23:43 | comments(3) | trackbacks(0) | pookmark |
久賀島風土記(5) - 市小木(いちこぎ)・浜脇編
平成25年12月14日(土)


[写真:精霊流し製作]
精霊流し製作

「チンカンチンカン・ドーイドイ」。久賀町の市小木地区では、8月15日に精霊流しが行われます。7月下旬に竹で舟の骨組みを作っておき、8月15日の午後から麦藁を使って仕上げます。2艘の精霊舟は、午後7時頃から町内の各家を回り、それぞれ舟に提灯を吊るし仏壇の供物を載せ、舟の後をついて回る子ども達には、お菓子やご馳走を用意しています。

[写真:精霊流し]
精霊流し

回り終えると、市小木と久賀の間にある大口橋で女性たちが盆供養の念仏を唱え、舟は久賀の農協横の波止場へと運ばれます。岸壁から舟がおろされると、泳ぎの達者な男性たちが海に飛び込み、舟に火をつけ、沖まで曳いて火が収まるのを見守るのです。陸で叩くドラと鉦の音、精霊舟の竹がはじける音。真っ暗な海で赤々と燃える精霊舟。約100年前から始まったと言われる精霊流しは、今も続けられています。

[写真:猿田彦神社]
猿田彦神社

市小木の猿田彦神社例祭は、10月17日に執り行われます。以前は2年に1度だった神輿巡行は、折紙神社例祭と重なることがあり、また若者の減少などにより現在では5年に1度になりました。「神輿巡行は、島中から手伝ってもらっています。市小木の人は、行事は守っていくという気質があるので止めようという人はいません」とは、お話を伺った山田久道さんの言葉です。

[写真:猿田彦神社]
猿田彦神社

[写真:浜脇教会]
浜脇教会

田ノ浦の海から見える白い教会が、昭和6年に竣工された浜脇教会です。五島で最初の鉄筋コンクリートの教会ということで、見学者も多かったようです。設計施工された故野口正登氏は、「労務は皆島の信者、職人は平戸天主堂建設の仲間達で、現場に従業員飯場を仮設し、昼夜兼行、一意専心、工事の進捗に努力した」と当時の様子を書いています。戦時中、敵機の標的になるのを避けるために黒く塗られたこともありました。

[写真:浜脇教会建設途中]
浜脇教会建設途中

明治14年に建てられたといわれる最初の浜脇教会は、この時に取り壊す予定でしたが、五輪の信徒さんたちの強い要望で移築したのが現在の旧五輪教会です。解体した教会は「筏に載せて潮の流れがいい時に船で曳いて運び、満潮の時に陸に揚げた」と亡くなった五輪の方から聞きました。

[写真:浜脇教会]
浜脇教会

しかし、台風などで傷みがひどくなり、教会は昭和59年に再び取り壊されることに。五輪で取り壊しを聞いた坂谷善衛(編集註・筆者のご主人)は、取り壊しを一週間待ってくれるように五輪の人に頼んで帰宅。私は、当時受講していた福江市中央公民館講座「成人大学講座」で、講師故松島喜代治先生から「五輪教会は久賀島の歴史を物語る大切な教会なので、残さなくてはいけない」と聞いたばかりでした。

[写真:旧五輪教会]
旧五輪教会

坂谷は教会の保存を働きかけましたが、宗教施設であるために難しく、県の文化課に調査を依頼しました。県の文化課の人と一緒に来られたのは、建築学の故丹羽漢吉先生でした。丹羽先生は、坂谷に「この教会は、日本の建築様式を知るうえで、とても貴重な教会です。国宝に匹敵するようなものですから、大切に残しておくように」と言われたそうです。

県の調査団が来られたのは、昭和59年12月。その2ヶ月後の昭和60年2月に県の文化財に指定。平成11年5月に、丹羽漢吉先生の言葉通りに、国の重要文化財に指定されました。現在では新しい教会が建てられ、新旧二つの教会が並んでいます。2度の解体を免れた旧五輪教会は、ユネスコの世界遺産登録を目指している「長崎の教会群と関連遺産」を構成する教会の一つとなっています。

[写真:デイサービスセンター]
デイサービスセンター

浜脇教会の近くに、昭和7年に創立された修道院があります。昭和27年、教会関係者や当時の久賀島村長の賛同を得て、久賀島保育所をスタート。さらに、蕨でも園児60人の保育を開始しました。遠い山道を、修道院から蕨まで約2時間かけて毎日歩いて通ってこられるシスター達に、蕨の人達も感謝し結びつきが強かったと『久賀修道院50年の歩み』に書いてあります。その後、園児の減少で蕨保育園は無くなりましたが、この時のことを恩義に感じた蕨の人達は、子どもや孫を修道院の保育園に通わせ続けました。現在、久賀島保育園はディサービスセンターとなっています。
| hisakajima | 久賀島について | 19:48 | comments(5) | trackbacks(0) | pookmark |
久賀島風土記(4) - 猪之木町編
平成25年11月23日(土)




[写真:猪之木・石神神社]
猪之木・石神神社
猪之木町は、猪之木、永里、深浦、細石流の地区からなります。
「山紫で水清き、誰がつけたか重別当と、とってもいい名がついたもの」。猪之木出身の山田徳幸さんがつくった「猪之木名所古跡めぐり甚句」の一節です。猪之木は、もとは重別当と言ってましたが、いつの頃か猪之木と町名を変えました。良い名だったのにと、少し残念な気がします。「山紫で水清き」と歌われている通り、季節になると蛍が乱舞し島の人も蛍狩りに訪れます。猪之木の人達は、川を汚さないように気を付けていると聞きました。「村の鎮めは石神で・・。村を興した地盤様・・。山城荒神さんは、法螺貝吹いて村回り・・」と甚句は続きます。猪之木は、少し歩くと神社や祠に出会う所です。

[写真:巌屋の観音.お参り]
巌屋の観音.お参り

[写真:巌屋の観音洞窟]
巌屋の観音洞窟
「観音経やらご心経、唱えますればあらたかや、岩より出る水の音、十八日がご命日、老若男女が詣ります」。山中にある巌屋の観音は1月18日と9月18日が命日で前日から観音堂に籠ります。私がお邪魔したのは、平成14年1月17日の夜でした。洞窟の中の観音様の前には蝋燭が灯り、果物やお餅、お菓子などが供えられ、裏手で水が滴ります。真っ暗な山中に、ご心経やご詠歌、鈴の音、そして発電機の音が響いていました。夕食の時間には、ご馳走が並んだテーブルを囲み昔話に花が咲きます。服を脱いで頭に載せ、沖の瀬まで泳いで夜釣りに行ったこと。それぞれの瀬には名前がついていて、そこで釣る人は決まっていたこと。鹿は合歓の木が好きなのか、殆ど鹿が皮を剥いでいること。話題は、次から次へと広がり楽しいひと時でしたが、この夜籠りも若い人が少なくなり、今では参道や観音堂の掃除をして、お参りをするだけになっています。また誰が塗ったのか、観音様をはじめ仏像が極彩色に塗られてしまい猪之木の人達は、とてもがっかり。綺麗に塗り分けていいるので悪戯ではないのだろうと諦めましたが、色を落とすこともできずに困っています。

[写真:巌屋の観音・岩から水]
巌屋の観音・岩から水

[写真:巌屋の観音]
巌屋の観音

 2隻の船が左右に分かれ、網を入れながら陸へと向かいます。陸の近くまで来ると、船に固定している「かぐらさん(ろくろ)」を回し、網を引き揚げます。9月から11月まで、深浦ではこの漁法でカマスを獲っていました。かぐらさんを船に積むことで、何処ででも網を揚げることができ漁獲高も多く、深浦はカマス漁で栄えました。今では網を使ったカマス漁はなくなり、魚群探知機を付けた小舟で釣る人が多くなっています。

[写真:昔の芝居(久賀)]
昔の芝居(久賀)

 また深浦では、復員してきた軍隊の演劇部にいた人から指導を受け、祇園祭りや旧暦のお盆の時などに芝居を披露していました。塩浜神社横に作った舞台の上には船の帆を張り、明かりはガスランプでした。花道や一段上の場で演技する時には、カーバイトランプでさらに光を当て顔が分かるような工夫もしていました。終戦後は、どこの地区にも旅回りの芝居が回ってきたので、その芝居もお手本にしたようです。前狂言、中狂言、後狂言と三部に分かれ、その幕間に女性たちは股旅物を踊り拍手喝采を浴びました。他に娯楽がなく仕事の合間に練習を重ね、演技する人も観る人も、大人も子どもも共に楽しんだ時代でした。

[写真:深浦・塩浜神社]
深浦・塩浜神社

「表彰状 細石流水稲早期栽培研究会」。昭和33年12月22日に、当時の鳥山豊吉福江市長からいただいた表彰状です。つい最近まで、五島列島は台風の通り道でした。稲の花が咲くころに台風がくると、稲が実らず収量が半減し農家は泣かされていました。そのような時に水稲の早期栽培を新聞で知った川端さん(現在久賀町の川端商店)は、長崎県農業普及員の田代さんに指導を仰ぎ早期栽培に取り組むことにしたのです。最初に集まったのは、四、五人くらいでした。細石流の骨噛(ほねがみ)地区の田圃に共同で種を播き、苦労に苦労を重ねた末に早期栽培に成功することができたのです。田代さんは、つきっきりで指導をしてくれました。台風が来る前に収穫できる早期栽培は、久賀島全域に広がり、普通栽培の時は、玄米60キロ袋で500俵位だったのが、早期栽培では1200俵になったこともあったと、当時農協に勤めていた大戸次雄さんは述懐しています。
| hisakajima | 久賀島について | 01:15 | comments(5) | trackbacks(0) | pookmark |
久賀島風土記(3) - 久賀編(1)
平成25年11月09日(土)




[写真:折紙神社巡行]
折紙神社巡行

 村社であった折紙神社例大祭は旧暦9月20日、21日に執り行っています。若者に担がれた神輿が神社を出発し久賀町内を巡行し、町はずれでトラックに載せられます。田ノ浦町と蕨町が抜け、現在では久賀、大開、市小木、猪之木、永里の5ケ町で各町内を巡行し折紙神社へ戻って来るのです。以前は島全体の人達が参拝し、大人の奉納相撲も賑やかでした。各町内持ち回りで御旅所を作り、神輿はそこで一夜をあかし二日かけて巡行していたそうです。しかし三年に一度行われていた神輿巡行は、平成13年11月7日を最後とし、現在は、子どもの奉納相撲だけが行われています。平成18年7月15日、八坂神社の祭りは久賀町内を巡行、大開にある柳坂神社は、平成15年10月15日がそれぞれ最後の神輿巡行となりました。

[写真:1980年奉納相撲]
1980・奉納相撲

[写真:柳坂神社神輿]
柳坂神社神輿

 折紙神社には、明治25年にお伊勢参りに行った地元の人が奉納したという三十六歌仙の絵馬が残されています。一部散逸していますが、今では古くなった絵馬を額縁に入れて大切に残しています。当時、お伊勢参りのお土産に三十六歌仙の絵馬を選ぶとは、さすがだと思いました。

[写真:伊勢]
伊勢

 20年ほど前に、久賀町の由緒ある家の襖を頂いて、襖の下張を取り出しました。その襖の下張に「天満宮建立歌に・・・寒梅と共にお宮も栄候利・・」とあり、中には「なべ代」などと支払が書かれています。風流だなあと思いました。また明治2年に京都から久賀島へ勅使が来たことも書かれています。勅使の理由は書いてありませんが「雑用帳」が残されています。ほかにも明治6年1月19日の「僧侶に対する太政官布告」もあります。これは、「僧侶の肉食妻帯蓄髪などを許可する」もので、比丘尼も同じくと書いてあります。久賀島の歴史解明に役立ててほしいと、襖の下張の文書をまとめたものは五島観光歴史資料館に寄贈しています。ぜひ読み解いて欲しいと思います。

[写真:2008年二十日正月]
2008二十日正月

 1月20日の「二十日正月」。久賀町内の皆さんが文殊堂に参拝し、禅海寺のご住職から経をあげていただいたあと、この日の歓談しながらのご馳走には、「ソーメン」がつきものです。知恵餅といわれる餅もついて、参拝者に配っていました。この知恵餅を食べると頭が良くなると言われています。昔は子ども達も多く、たくさんの餅をつくのでサツマイモの飴だったそうですが、何時からか小豆飴になりました。最近は、餅は配らずにお供えするだけになっています。

[写真:2007年二十日正月]
2007二十日正月

 昨年から久賀町内の女性達は、毎月24日を農休日として文殊堂に集まって一日を過ごしています。大勢で話していると、いい考えや知恵を聞けると言います。「昔の人達は、実際に体で体験しているから言うことに嘘がない」。お話を伺った女性から聞いた言葉です。文殊堂では「百万遍」の行事も行い、久賀町の皆さんの心の拠り所にもなっています。

[写真:禅海寺天上絵]
禅海寺天上絵

 350年以上の歴史を持つ禅海寺は、平成3年に建て替えられ、翌年の3月1日に落成式を行いました。門徒の皆さんは、新築の為の寄付集めに5年の計画を立てていましたが、2年で集まり早く新築することができました。藤山才蔵という画師が描いたという花鳥画の天井絵も残されていますが、これは明治13年に再建されたときに描かれたのだと言われています。久賀島では3月から「ふだうち」が始まりますが、禅海寺は札所の一つで島の女性たちが訪れます。

 「日本一の久賀の椿」と、久賀島の民謡「椿音頭」にも歌われている椿。昭和29年3月2日に、「久賀島村における椿樹・ウイキョウ樹伐採禁止に関する条例」を定め椿とウイキョウを保護しました。5月17日には、東京読売ニュース社のカメラマン一行を呼び、当時のミス椿による「椿音頭」も披露しています。12月には「久賀島観光八景絵葉書」を売り出すなど、椿と観光で久賀島の生き残りを図ろうと努めましたが、昭和32年に福江市と合併することになりました。

[写真:椿音頭・松井先生アトリエ前]
椿音頭・松井先生アトリエ前

 椿油は、昔は家庭用に使うほかは、お使い物にすることが多かったそうです。大開町内では、町内の人たちが合同で長浜(県指定椿原生林)に「カタシ(椿の実)採り」に行っていました。木に登り、時には木から木へ飛び移って採ったそうです。「どんざ」を着て、たすきをし、腰ひもを結び、採ったカタシは懐に入れるのです。木に登りやすく、また懐に入れたカタシが落ちにくいそうです。朝早くに出かけ一日で採り終え、採ったカタシは、大きなカマスに詰めて「カネナワ」という藁で編んだ縄で背負ってきました。戻ると全部を集めて、カタシ採りに行った人達全員で平等に分配しました。人口が少なくなった現在は、どこの町内でも合同で採ることは無くなり、それぞれ個人的に採り、家庭用にする以外には農協などに販売しています。

[写真:カタシ採り服装]
カタシ採り服装

 つい最近まで、サツマイモでもマキでも、大きなものはすべてカネナワ1本で背負っていました。私も試してみましたが、要領が悪いために縄が首を絞めたようになり背負うことができませんでした。
| hisakajima | 久賀島について | 09:29 | comments(8) | trackbacks(0) | pookmark |
久賀島風土記(2) - 蕨町編(2)
平成25年10月26日(土)


 NHK朝の連続ドラマで一躍注目を集めた海女さん。20年ほど前までは、蕨にも大勢の海女さんがいました。普段は農業などに従事しているのですが、ウニ、テングサ、サザエ、アワビなどを採る時期になると海女さんに変身するのです。

[写真:ウニ割]
ウニ割

 蕨で大人が「泳ぎに行く」というのは単に泳ぐだけではなく、潜って何かを採ることだと知りました。黒いウエットスーツを着た女性たちが、潮を滴らせながら海から戻ってくる様は、とても格好よく見えたものです。現在も数人、時期になると潜る女性たちがいます。陸では足腰が痛いと言っている人も、そこは昔取った杵柄、海の中では自由自在に動き回ります。

 以前は海藻が生い茂り、ウニやサザエなどの海の幸が豊富だった海。海岸近くを小舟が通ると、スクリューに海藻が巻き込まれ、船外機を上げ海藻を取り外さないと走れないくらいでした。しかし現在では、あれほど茂っていた海藻が少なくなり、ウニもサザエもアワビも、そして魚さえも少なくなってきています。以前は町内を上の組、下の組、須ガ崎の3班に分け磯洗いをしていたそうです。その頃は人口も多く、海の幸も豊富でした。

[写真:蕨・養殖場]
蕨・養殖場

 今は、漁業の主体は定置網ですが、以前は1本釣りだけで生計を立てている人も多かったそうです。魚の養殖も盛んでタイ、ブリ、ヒラメ、トラフグなどのほか、大野という場所ではクルマエビも養殖していました。現在は福岡の会社がやっています。島に住み、農業や漁業など自然を相手の仕事をしていると「地球温暖化」を身に染みて感じます。

 60歳以上の女性たちが受け継いでいる「お大師堂のみもり」。当番にあたった人は、毎月7日、17日、20日、23日、28日の5回、お大師堂と高麗地蔵に果物とご飯、お茶を供え、お水を取り替え、掃除をします。彼岸やお正月、お盆に当たるとお団子やお餅を供えないといけません。

[写真:高麗地蔵]
高麗地蔵

 お釈迦様の誕生日(旧暦4月8日)の朝は麦ご飯を炊き、お釈迦様入滅の日(新暦2月15日)は、栗のご飯を炊きます。それぞれお釈迦様誕生図や涅槃図の掛け軸を掛け、ご馳走をつくり、お大師堂に集まっていただいた女性たちと食事をしながらひと時を過ごすのです。7日や20日などの日にちが、何を意味するのかも分からないまま、私たちは代々受け継いできたことを守っています。80歳で引退なので、当番が回ってくるのは早くなりそうですが、暫くは続けられそうです。30年、わずか30年で変わってしまった祭りや行事。そして日々の暮らしぶり。忘れてしまわないうちに、記録に残しておきたいと思います。

[写真:高橋さんと高麗焼き]
高橋さんと高麗焼き

 お大師堂のわきにお祀りしている高麗地蔵は、海に沈んだ高麗島から命からがら携えてきたお地蔵様だと言い伝えられています。言い伝えや物語を旅して本を書いておられる、探検家で作家の高橋大輔さんが、以前、調査のために高麗地蔵を訪ねて蕨町にやって来たことがあります。何度か久賀島を訪れていた高橋さんから、高麗島が沈んだという高麗曽根に行きたいという相談があり、地元の人たちも一緒に、平成15年6月高麗曽根を目指しました。



[写真:船から見えた高麗曽根]
船から見えた高麗曽根

 蕨を出発して暫くすると、島影は見えなくなってしまい、ただただ大海原が広がっているだけ。空と海だけを眺めていると突然、海底が浮きあがってきたように見えました。そこが高麗曽根だったのです。手に取るように見える海底は、大きな平たい石が重なりあっているようにも見えます。高麗島はあったとか無かったとか、いろいろな意見がありますが、大海原に突然現れた高麗曽根は、そのような議論は無意味だと感じさせるほど存在感あふれるもので、この時の感動は、高麗地蔵をもっと大切にお守りしようと思わせるに十分なほどでした。

[写真:恵剣寺ソテツ]
恵剣寺ソテツ

 五島藩の祈願所だった福見の恵剣寺。ご住職がいなくなった今では、福見の人がお寺を守っていますが、一人なので大変なご苦労をしています。昔は、お寺の入り口近くに大きなソテツがありました。子ども達は、そのソテツの枝の上を走り回っていたそうです。

 恵剣寺に行くと、「栄健寺」と書いてあるのが不思議でした。言い伝えによると、恵剣寺の歴代のご住職がなぜか短命だったために「栄健寺」と変えたとか。この恵剣寺の横を流れている小川の水は、眼病に効くというので、遠くから泊りがけで目の治療に訪れる人たちで賑わっていたそうです。福見の海岸には眼病治療に訪れた方々の船がひしめき合っていたと、亡くなられた福見のおばあちゃんに聞きました。今でも福見に行くと「お水」を汲んで帰りますし、「お水を汲んできて」と頼まれます。

 以前蕨では、どの宗派の人たちもお葬式が終わると初七日までは毎日、恵剣寺にお参りをしていました。舅姑が亡くなった時、私たち家族も毎日お墓参りに行きました。それほど恵剣寺は、蕨の人たちに大切にされています。しかし、台風の影響などで、屋根や雨戸などが傷んでしまい雨漏りがひどく心配です。そこで蕨の有志たちが、修理費用を捻出する方法を模索しているところです。
| hisakajima | 久賀島について | 09:19 | comments(5) | trackbacks(0) | pookmark |
久賀島風土記(1) - 蕨町編(1)
平成25年、五島市の地元紙「五島新報」に、
久賀島に越してきてから見聞きしたことなどを軸にして拙文を載せていただきました。
久賀島の今だけではなく、昔の久賀島も知っていただきたく、
許可を得てブログでご紹介します。
週一回ずつ全6回になりますが、よろしくお願いします。

平成25年10月12日(土)


------
 先人たちが長い時間をかけて築き上げてきた生活習慣や各種行事など、いわゆる地域の伝統が消えようとしている。昭和39年(1964)の東京オリンピック誘致が決定以後人口の都市集中化が進み、過疎化現象が始まり、多くの生業の変化と伝統が失われた。
 比較的地域の伝統が残されていた福江島隣の久賀島でも、65歳以上の高齢化率は53.2%(9月末)となり、人口も400人を切った。その形や意味が時代にそぐわなくなったばかりか、その精神を伝える相手もいなくなってきたのだ。
 上五島・若松島に生まれ、高校から五島を離れ、結婚して間もなく夫の里久賀島に移住して30年余。その間、公民館主事に長く従事したこともあり、久賀島全域の歴史や伝統、寺社仏閣などにも詳しい坂谷伸子さん(64歳)に久賀島各地の今を伝えていただく。
------

 養殖の魚の餌をつくるミンチ機械の音、漁協で働いているおばさんたちの笑い声、学校から聞こえてくる子ども達の声、沖へと急ぐ船のエンジンの音。そして魚の餌となるイワシの生臭い臭い。主人の故郷である蕨町に引っ越してきた昭和57年ごろ、町は活気に満ち溢れていました。しかし役30年が過ぎた今、高齢化に伴う人口減少、蕨小中学校の廃校などで、蕨町はひっそりと静まり返っています。
 長年受け継がれてきた祭りや行事の中には、若者の減少で継続できなくなったものもあります。寂しい限りですが、仕方がないことでもあります。

[写真:1月1日]
1月1日

 「明けましておめでとうございます」。元日の朝早く、男の子たちは、それぞれ親戚や知り合いの家の玄関を開けて回ります。玄関を開けてもらった家では、お年玉を用意しておいて二日の日に「ヒュービッゼン」といわれるお年玉を渡します。男の子たちの声を聞くと、お正月が来たと嬉しく感じたものです。男の子がいなくなった今では、この行事もなくなってしまいました。女性だけの家では、しばらくの間は男性に玄関を開けてもらっていた家もありましたが、それもいつの間にかなくなったようです。

[写真:お墓参り]
お墓参り

 今も続いている元日のお墓参り。最初は驚きましたが、亡くなられた方々と一緒にお正月を祝いたい気持ちが込められています。朝早く蒸しあげた温かい赤飯と水、線香などを持ってお参りします。お墓参りを済ませてから、家族はお正月の膳を囲むのです。正月三が日は外へ出てはいけないと言われる女性たちも、このお墓参りだけは例外で家族そろって出かけます。

[写真:まつり]
まつり

 「鶴が舞う舞う この家の上で
  この家繁盛と 舞い下がる
  ハーエイヤー」
旧暦2月3日は、蕨神社の例祭が執り行われます。2年に一度の神輿巡行を取り仕切るのは青年団です。御神輿を担ぐために帰省する青年も多く、旧暦2月3日前後の土・日に例祭を行うようになりました。

 祭りの前夜、御神輿は、獅子や天狗、小学生が担ぐ触れ太鼓などの先導で御旅所へとおくだりします。青年たちは、御神輿を守りながら御旅所で一夜を明かします。祭り当日、青年に担がれた御神輿は町内を巡行しますが、その時に歌われるのが「六調節」、担ぐときの掛け声は「ハーエイヤー」。
 「ここは日向の高千穂の宮よ
  早く行きたや 橿原へ(奈良橿原神宮)
  ハーエイヤー」
道中、六調節を歌いながら御神輿を高く低く、右に左に揺さぶります。町内を4〜5班に分け、女性たちは御馳走を持ち寄り、班の世話役の家で御接待をします。御接待場所は、御神輿を担ぐ青年の休憩所ともなります。

 先導する「はなとり」の「舞いこんだ〜」という掛け声とともに庭先に入り休憩をしながら食事をし喉を潤します。休憩が終わると「お立ちじゃ〜」という掛け声で御神輿を担ぎ、また町内を巡ります。町内巡行が終わると、船で漁場へ行き大漁祈願、海上安全祈願のお祓いをして戻ってきます。それから御神輿を担いだまま冷たい海へ入り、六調節を歌いながら大きく御神輿をゆさぶります。その後、お上りがあり、祭りは終わります。

[写真:まつり]
まつり

 若者が多かった時代、未婚の女性たちは「処女会」と呼ばれ、竹で作った「やま」に入り、太鼓をたたき三味線をひき、歌を歌いながら賑やかに御神輿の後をついて回ったそうです。30年ほど前、復活してはどうかと、一度「やま」を再現したことがあります。未婚の女性が少ないために私たちも「やま」に入りました。残念なことに芸を引き継いでいなかった私たちは、太鼓もたたけず三味線もひけず、一旦途絶えた「やま」の継続は難しく一度で終わってしまいました。

[写真:祭り着物の子ども達]
祭り着物

 御神輿の巡行は、帰省する若者や余所からの応援を受けて何とか続けていましたが、それさえも難しくなり、平成20年3月の神輿巡行を最後に中止と決定しました。お祭りのときに響き渡る六調節とハーエイヤーの掛け声、町内のみなさんたちの晴れやかな笑顔が懐かしく思い出されます。
| hisakajima | 久賀島について | 10:45 | comments(6) | trackbacks(0) | pookmark |
旧五輪教会外観と五輪の海
輪へと続く小道から見る旧五輪教会。
もとは、浜脇の教会堂として明治14年に建てられた教会を、ここ五輪の地に昭和6年ごろ移築しました。

教会の前の広場には、五輪の人たちが移植した桜の木が、大分大きくなっています。
春には花見もできます。

2003年の旧五輪教会。
広場には、桜の木はまだありません。
そのかわりに教会の前に桜の木があります。

五輪の海です。
透き通ったきれいな海です。
そして五輪の人たちの生活を支える海です。



皆様が、あまりご覧になることのない場所からの旧五 輪教会。
2003年に写したものです。

産業革命遺産が世界遺産に決定しました。
おめでとうございます。
次は、長崎の教会群と関連遺産ですね。
| hisakajima | 久賀島について | 05:21 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
久賀島つばき祭と「五島列島久賀島の旅」のご案内
・・・2月21日・22日・・・・
平成9年から、久賀島やぶつばき会が開催している「久賀島つばき祭」
2月14日から3月1日まで、五島市各地で様々なイベントが開催されます。



久賀島では、浜脇教会や旧五輪教会、そして島民手作りの折紙展望台などの島めぐりを行います。
島めぐりのあとは、やぶつばき会の活動拠点である椿の里で食事もできます。
また、フランス・コルシカ島在住で、久賀島にもアトリエを構えている松井守男画伯の絵画鑑賞もあります。
松井画伯は、今年も「久賀島つばき祭」のために、フランスから久賀島に戻ってこられます。

詳細は下記のとおりです。
 ・場  所  久賀島つばきの里
 ・島めぐり  9:40〜12:40
 ・島めぐり参加費 大人 2,000円  
          小人 1,500円
 ・昼食      1,0 00円
 ・主催  久賀島やぶつばき会
 ・お問い合わせ・申し込み(やぶつばき会)
          TEL・FAX 0959−77−2131
          携帯 090−9598−1107


今年は、五島市市政施工10周年記念ツアー造成事業も同時に開催します。
五島列島久賀島の旅
〜椿の古木を訪ねて〜
なんと、長崎港から久賀島往復の船代と民泊代すべて込みで、5,100円です。

やぶつばき会では、ツアー参加者向けに「椎茸の菌打ち体験」を実施します。
やぶつばき会で整備している山の状態をご覧いただいたあとに、菌打ちを体験していただきます。
ご希望の方には、菌を打った「ほ だ木」をお送りしますので、ぜひご参加ください。
>>20140705久賀島民泊ツアー広告

お問い合わせは、五島市観光協会まで。
 五島市観光協会 TEL 0959−72−2963
 詳しくは観光協会のホームページをご覧ください。
 http://www.gotokanko.jp/

皆様の参加をお待ちしています。
| hisakajima | 久賀島について | 22:34 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
ムベの中は・・・このようになっています
ムベをご存じない方が、大勢いらっしゃるようです。
当たり前ですね。
さて、ムベの外はこうです。

ムベ

そして中は、このように種ばかりです。
熟すと、わずかにある種と種の間の果肉(?)が甘いんです。

ムベ

私は、久賀島に引っ越してくるまで、種は吐き出していました。
しかし、主人が言うことには「種ごと食べるんだ。腸の掃除にもなる」と・・・。
本当かな?????
皆さんが、そうなのかは分かりませんが今では私も種ごと食べています。
慣れると種があまり気にならなくなりますから不思議なものです。
| hisakajima | 久賀島について | 23:55 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
文化的景観の久賀島ですが・・・・
久賀島は、文化的景観に選定されています。
でも年々人口が減少し、それに伴い山や畑を管理できる状態ではなくなってきました。
蕨の棚田も、大分荒れてきました。

また、以前も書きましたが蔓と竹がはびこって来ています。
このままでは今に、蔓と竹の島になるのではないかと心配です。
現在は、自分たちができる範囲で細々と里山保全や田んぼや畑を耕しています。

他の場所の山も蔓や竹が多くなってきましたが、我が家はまだ稲刈りが終わっていません。
手伝いが終わり、いざ我が家の稲刈りを・・・と思っていると雨が降り田んぼに入れなくなったり。
今年は長雨に悩まされました。
ここ大開の田んぼにも、あと少し稲が刈り残してあります。

これは別の場所の田んぼですが、倒れたり雨ばかりで稲刈りができなかった場所では、普通なら稲刈りが終わった後に出る稲が芽をだし伸びています。
自然相手の農業。なかなか大変です。自然は、人間の都合のいいようにはなりません。
せめて、地球温暖化を防ぐべく自分ができることを始めたいと思っています。
あちこちで災害が多発しています。田舎に住んでいる私は、人間がこれまで自然にしてきたことが影響しているのではないかと思ったりしています。

田ノ浦へ行く途中にある市小木地区です。
今、写真をとりに行く時間がないために、稲刈りや移動中の写真ばかりですが暫くお待ちください。




| hisakajima | 久賀島について | 10:09 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< October 2017 >>

bolg index このページの先頭へ